隣の芝生は青く見える

子供の頃や、学生時代、よく隣の芝生を青く見えていた時期があった。
誰々の家には両親居ていいな、新しいおもちゃを買ってもらえていいな
親同士が仲良いいから、○○くんのおうちで遊べていいなとか
高校生の時は、地元の父母が監督を接待してそれで試合に出てた部員がいたので(真実はわからないw)
ズルいなと思う反面、俺にもあんな力があったらなと思うこともあった。
サラリーマンの時だって、他の会社の環境や設備やら仕事のスケールをうらやましく思わなかったかと言えば嘘になる。
そう思ったことは少なからずある。
でも、そういう気持ちを持ってよかった。
逆にその憧れていた位置に自分が立たなくてよかったなと思っている。
それは、なぜか。
自分が片親であったから、親父という存在は子供にとってどれだけ大切な存在かをわかったし
新しいおもちゃを買ってもらえなかったから、どうやって楽しむのかを工夫できた。
母は、近所付き合いが嫌いだったのでその分、僕がどこの誰かも年齢もわからない公園で遊んでる人に声をかけまくっては友達を作ってた。暇そうなおっさんとも遊んでた。
高校生の時だって一緒。実力でやるしかないシンプルに自分に力があれば試合出れるとそこだけに集中できた。
サラリーマンは結果論に近いけど、厳しい環境にいたから起業するときのハードルは思ったより低かった。会社をやる上で学びになったことも多かった。大変だったけど。
そして今、サラリーマン時代の経験からでは出し得ない、延長線のビジネスじゃない新しいことにチャレンジ出来ている。
経営者は自由だと思う人も多いし、自由の定義は人それぞれだけど
やったらやった分だけ返ってくる仕事。
やったらやった分だけってポジティブに聞こえるかもしれないけど、それはサボればサボるだけ
その分もツケとして回ってくる。手抜きをしたら、した分だけそれ相応の結果になる。
自由といえば聞こえはいいけど、自分をどれだけ律することができるかが重要になってくると感じている。
今に満足しないために、満足しない自分をどれだけ作れるかがとても重要な位置になる。
そういう意味では、自由な人もいれば自由じゃない人もいる。
自由になりたいかと言われれば、僕はそういうタイプじゃない。
ルールや条件の中でどうやったら成果を出せるというのを考えるのが結構好きなタイプだからかもしれない。
僕はなんでスポーツがあんなにも多くの人を感動させるのかと考えると
それは決められたルールの中で不確実性なものを、自分たちの応援やプレーで奇跡が起こせるかもしれないという
今振り絞れるすべてを出し切って全力でぶつかってるからだと思う。
だから、負けても勝っても人は嬉し涙も、悔し涙も流すんじゃないかと感じている。
仮に、サッカーでルールを置かずやるとただの球蹴りになる。自分たちが飽きるまでただひたすらボールを蹴る。
ルールを決めたとしても破られる率も高いし、緩い。本人たちが楽しければOKというのもあるけど、それに感動はほとんどないと思う。
それを自由というなら、毎日やりたいと僕は思わない。積み重ねていく充実感が僕は好き。
隣の芝生を見て、人をうらやむことは誰にでもあるのかもしれない。
でも、今の僕はちっとも思わない。
それはなぜかと考えると苦しいことも、辛いことも、悲しいことも、楽しいことも、幸せなことも色々なあって人生って充実して豊なものだと思っているからかもしれない。
隣の芝生が青く見えるときは誰でもあることだけど
隣の芝生が青く見えないくらいに、というか隣の芝生なんか見る暇がないくらい今を妥協なく全力でやり切る。
そしたら、自分の人生に自信が持てて、自分の人生を生きてるって充実を得ることが出来続けるんじゃないかなって思う。

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